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[巻頭特集]明治13年、伊達市元町に胆振山大雄寺開創
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明治39年に落成した重厚な胆振山大雄寺の本堂

e0209801_15492050.jpg初代住職の相神百川師
亘理からの伊達邦成公主従開拓の10年後
 明治3年(1870年)蝦夷地に活路を見出そうと紋鼈(もんべつ・現在の伊達市)に移住した仙台藩の重臣、亘理(わたり)領主の伊達邦成(くにしげ)ら家中は苦難極まりない開墾を続けていた。この10年後、移住者たちの念願だった亘理伊達家の菩提寺末寺として、第8回移住者とともに住職相神百川師が伊達(現元町18番地)に渡り、自費で胆振山大雄寺を開創した。7代目の現住職奥村孝善師からのお話と平成3年(1991年)に発行された開創百十年記念誌「百拾年の法灯」を基に134年の歴史の一部をたどる。
(ニューボルカノ編集長・矢萩学)

 亘理伊達家の始祖実元(さねもと)は、仙台伊達家本家の伊達政宗の祖父晴宗(はるむね)の弟で、2代目の成実(しげざね)が慶長9年(1604年)福島県信夫郡小倉林にあった父実元の菩提寺雄山寺を亘理に移し、萬松山雄山寺と号した(その後、雄山寺改め大雄寺)。
 奥羽戊辰戦争が終結した明治2年、仙台藩亘理伊達家は宗家とともに所領地は没収、家禄もわずかに削封された。このような情勢の中で、当時の家老常盤新九郎(後の田村顕允=あきまさ)が邦成に進言し、邦成は一族の命運をかけた北海道移住を大英断。翌年4月にまだ雪が残る室蘭に北方鎮守の使命と北海道開拓の大義を旗印に、第一次移住団250人が上陸し、胆振有珠郡支配地に鍬を下した。
 以後、明治13年まで9回にわたり二千数百名余が伊達の住民となり、困難を極めた開拓事情などを乗り越え、北海道草創のまちとして名を高め、今も子孫に語り継がれている。
 曹洞宗(禅宗)はお釈迦さまから歴代の祖師によって相続されてきた正伝の仏法で、大本山は福井県の永平寺と横浜市の総持寺。萬松山大雄寺は慶長から元禄までの80年間、伊達領内曹洞宗の本寺として君臨した。
 維新を迎えた亘理大雄寺二七世の相神百川師は、主君とともに北海道への移住がかなわず亘理に残った。一切の禄が没収され廃寺同然となったが、何とか寺を残すため以後10年間、献身的な努力を尽くし歴代のお墓を守れる目途をつけた。元来から主君との随従を願い、明治12年10月に邦成へ書簡を送り、伊達村に寺院開創を請願した。
 翌年に開拓使により正式に寺号公称が許可され、第8回移住者とともに伊達に渡り、自費によって現在地の元町に菩提寺を建立し、小宇堂を建立したのが開創である(現在の堂宇は明治34年新築)。
 明治14年に最後の第9回移住者72人が入植した。
 檀信徒が去った後の亘理大雄寺は経済的基盤が全く失われ、百川師がこの深刻な状況を克服し再興を果たしたことは、神道復古と仏教排撃の嵐や寺つぶし策からの回避など苦心奔走のたまもので、想像を絶する困難だったと思われる。相神百川老師は開創後7年目、明治20年3月に遷化された。享年74歳(亘理にて)。

◇歴代住職在籍(就任―遷化)
 相神百川師(明治13―20・74歳)
 相神恵明師(明20―37・36歳)
 奥村得成師(明20―大12・52歳)
 奥村明道師(大12―昭7・47歳)
 広沢芳光師(昭8―26・45歳)
 奥村道孝師(昭26―平6・79歳)
 奥村孝善師(平6)

 二世恵明師は13歳のとき百川師の弟子となり、百川師を手助けしていた。明治17年(1884年)には住職代理として胆振山大雄寺に来ていたとされている。33年(1900年)には大殿堂(現在の本堂)建設に着手した。39年の完成を待たず、邦成公とともに33年に遷化された。
 本堂建築を引き継いだのは三世奥村得成師で、日露戦争が勃発した年でもあり、経済状況はかなり厳しかったが、本堂を完成させ寺院興隆する使命を負っていた。財源となる檀家からの募財は充分ではなかったため、多額の借金が残り、全責任を負うこととなった。19年間の在任であったが、寺門の点検、規定の整備、檀徒組織の確立など今日の大殿堂の基礎を築いた功績は大きい。
 四世奥村明道師は明治38年(1905年)得成師の養子となり、大正12年(1923年)に後任となった。境内隣接地(本堂裏側)を購入し、庫裡の大修繕、本堂の屋根葺き替えなど多くの事績を残され、47歳の若さで遷化された。
 五世広沢芳光師は、昭和8年(1933年)の就任から26年の遷化までの18年間、伊達には戸籍がなく長期寄留であった。16年は太平洋戦争開戦で軍にも召集され、長く住職不在となった。金属、仏具の強制回収もあり当寺にあった大鐘(約450㌔㌘)も供出された。
 六世奥村道孝師は、四世明道師の長男であり昭和9年に室蘭中学校を卒業。昭和16年に大本山総持寺、17年に永平寺に拝登され、翌年には軍に召集された。悲劇の終戦後にはソ連・シベリヤに抑留され22年(1947年)に帰国した。24年には長男の七世奥村孝善師が誕生した。
 当時の同寺は2家族の大世帯で、室蘭の知利別に分寺開建の最中、26年に五世芳光師が遷化され、その年に母子7人は移り住むことになり、道孝師は2寺掛け持ちの住職となり、東奔西走の年月でもあった。
 この大雄寺と伊達の歴史の一部をたどると、明治8年に第7回移住者到着、西洋農具の使用開始。寺院開創の明治12年、翌年に官立製糖所設置。一世百川師遷化の翌年21年に市町村制公布。稀府、黄金、東紋鼈、西紋鼈、長流、有珠の6村合併し伊達村となった33年、胆振山大雄寺の本堂新築工事が着工(現在の本堂)、39年に落成した。日露戦争勃発の37年9月に二世相神恵明師、11月に伊達邦成公ご逝去。43年には有珠山が噴火し四十三山を形成した。
 大正時代に入ると2年(1913年)に田村顕允没。関東大震災が起こった大正12年・三世道山得成師ご逝去。昭和19年(1944年)に有珠山の噴火で昭和新山が出現。43年(1910年)室蘭知利別町に説教所(後の大雄寺末寺大光寺)設立。44年に伊達町開基百年式典。46年伊達市制施行。48年に第1回武者まつり。52年(1977年)には虻田町三豊に同末寺・大真寺再興、有珠山噴火。56年に伊達市と亘理町がふるさと姉妹都市を締結。平成3年(1991年)には新会館が落成、記念誌「百拾年の法灯」が発刊された。
 七世の現住職・奥村孝善師は「寺は歴史の塊、祖先のルーツを知る大切な場所。先に有珠善光寺があったからこそ、入植時にアイヌ民族と友好関係ができ、ソ連の侵攻からも逃れることができ、支えあうことができた」と語る。2006年からは「亘理伊達家御霊屋」の御開帳法要や伊達の歴史講和、写経と写仏体験など地域住民が楽しめる大雄寺フェスタ(本年は中止)も行われており、「寺は伊達神社とともに皆さんの心の支えとなりたい。伊達武者まつりでも歴史の感動を感じ取ってもらい、心を打つようなまつりに育ってほしい」と今後の地域繁栄を願っている。
 また、現住職の奥様美紀子さんは、仙台藩から伝わり、フェスタでも披露している「伊達すずめ踊り」を大雄寺内で月2、3回指導し、「小さい子供たちの仲間も増えてきました」と喜ぶ。
 宝物殿には、大雄寺の開創や開拓にまつわる仏像や先祖代々の家宝の甲冑、当時の生活用具などが今でも持ち込まれ、所狭しと展示されている。
 大雄寺地下には坐禅堂を開設(50席)。スポーツ少年団や企業の研修などで利用されている(予約制)。副住職奥村孝裕師の案内で普段は見られない客間などの見学、副住職の法話聞き、精進料理の昼食も味わうこともできる。
 数々の歴史を刻んできた胆振山大雄寺。この伊達の誇りとともに歩んだ祖先に手を合わせ、さまざまな思いをはせることで、未来永劫、心の支えとなりますように…。

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by volcanomg | 2014-10-14 15:52 | 2014 秋冬号
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